工場畜産と経済的自由

細野善寛

このレポートのアウトライン

なぜ、このテーマを選んだか

私たちは当たり前に肉を食べていて、畜産や肉食について疑問を持つことがなかなかないですが、実際はいろいろな問題があるようです。

なぜ、「工場畜産と経済的自由」というテーマを選んだかというと、功利主義者であり動物解放論者であるP.Singerの著作を読んで肉食について疑問を持ち、この際に肉食についての問題点を整理しようと考えたからです。

動物に対する思想の変遷

古来より哲学者は人間と人間の関係について取り扱い、人間と動物の関係や人間と自然の関係について取り扱うことはほとんどありませんでした。動物の幸福・福祉について考えられ始めたのは約200年前からであり、それまでの人々は動物はただ利用するためだけに存在すると考えていました。例えば、紀元前4世紀のアリストテレスの「自然はすべての動物を人間のために造った」という言葉、旧約聖書の「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」という言葉、17世紀のルネ・デカルトの「動物は精巧な機械に過ぎない」という言葉、18世紀イマヌエル・カントの「動物には自意識がない。動物は単に目的のための手段としてのみ存在する」という言葉がこれを端的に表しています。動物の幸福についての主張が登場し、倫理の扱うべき問題として登場したのは、ようやく、18世紀後半で、デイヴィッド・ヒュームの「人倫のおきてにより、動物をやさしく扱う義務がある」とする言葉や、功利主義者ジェレミー・ベンサムの「重要なのは、動物は理性を働かせることができるか、または、話すことができるか、ということではなくて、動物は痛みを感じることができるか、ということなのである」という言葉を待たねばなりませんでした。

肉食が擁護されないとされる理由

倫理学者であり、菜食主義に対しての倫理的根拠を与え続けていると考えられるP.Singerの著作「動物の解放」において肉食が擁護されないとする主な理由は次の2つです。

  1. 動物に対する人間の道徳的優位性はなく、動物は人間と同様の倫理的価値を持つ。
  2. 現代畜産に使われている穀物を飢餓状態の人々にまわすことが食料配分の非対称性を是正する条件である。

これら2つの彼の主張を説明します。

1.動物に対する人間の道徳的優位性はなく、動物は人間と同様の倫理的価値を持つ
彼は「すべての動物は平等である」とし、「平等という基本的原則は、平等の、あるいは同一の扱いを要求するものではない。平等の考慮を要求するのである。異なった生き物を平等に考慮することによって、異なった扱い方や異なった権利が生じるかもしれない」としています。彼はベンサム同様、快苦を感じる能力から動物の倫理的価値を導き出しました。つまり、人間の利益であれ、動物の利益であれ、利益は利益であり、人間の利益だからといって動物のそれより大きいとすることは差別の一形態、つまり、シンガーの言うところの「種差別」ということになる、というのです。そして、動物に苦痛を与えたり、動物の利益を損なったりすることのないよう、肉食をやめるべきだ、といいます。

2.現代畜産は世界の穀物配分の非対称性をもたらしている
また、彼は肉食をやめるべきだとするもう1つの理由として、現代畜産に使われている穀物飼料を飢餓状態の人々に配分することにより食料配分の非対称性を是正することが可能になるとしています。

本論

動物は権利をもつか

人間は存在それ自体に価値があると考えられ、人権を保障され、人として尊重されますが、これは、人間が平等であるという事実に基づいて定められたものではないことは明らかです。例えば、私とあなたの走る速さは異なるでしょうし、また、私は男ですから、子どもを産むことはできません。つまり、人権は理念に基づいて定められたものだと言えるのです。これを拡張して、「すべての動物は平等である」として動物の権利を定めてみると、どうなるでしょうか。「救命ボートテスト」の例により人権と動物の権利は鋭く対立することが分かります。救命ボートテスト、とはハンドアウトにも書いてある通り、「人2人と犬1匹が乗った救命ボートがあり、人1人または犬1匹のどちらかを海に投げ込まなければ、ボートが沈んで全員助からない」とするテストです。ここで、我々の直感と同じだと思いますが、功利主義的に“生じる害悪が少ない方を選ぶ”としても、犬を海に投げ込むことを選ぶでしょう。(Fig.1)にもある通り、「人権」と「すべての動物は平等である」という理念の両方を認めるのは難しいように思われます。 次に、ある種の能力に基づいて動物の権利を導き出すことについて検討します。P.Singerは感覚能力や快苦を感じる能力をもとに動物の権利を導いていますが、これにも問題点があります。まず、どこまでの動物を感覚能力や快苦を感じる能力を認定し、平等に考慮しなければならない対象とするのか、という問題です。魚はどうか?昆虫はどうか?野菜につく害虫は?病原菌は?という様にです。また、感覚能力や快苦を感じる能力を判定するのは人間でしかあり得ず、その判定は恣意的にならざるを得ないのです。だから、能力に基づいて動物の権利を求めることは動物の権利の確固たる基盤とはなりえないと考えられます。したがい、すべての動物は平等であるとするがゆえに肉食を減らしたり止めるべきだとするのは論拠不十分だと思われます。


工場畜産について

動物が権利を持つとすることは難しそうですが、現代畜産の形態に倫理的問題がないとは言えません。自由競争の名の下に畜産の経済的効率を高めることが動物のおかれる環境を悪くしている多くの事例があります。一度も日の光を浴びることなく屠殺場に送り込まれる鶏、肉の色が淡いほうが好まれるという理由でほとんど鉄分を与えられない子牛、動けなくなるほどまで餌を強引に与えられるフォアグラ用のガチョウ、動物自身の大きさしかないゲージに入れられて育てられる豚…。(これらの事実は社団法人 中央畜産会のホームページ(アドレスは脚注参照)で写真つきで見ることが出来ます)動物にとって理想とされる放牧は与えたエサのエネルギーが運動によって消費されてしまい、太るのが遅くなり、また、管理のしにくさから経済的に見合わないのです。畜産動物はエサを肉や卵に変換する機械と化していて、このような畜産の有様は工場畜産と呼ばれています。これらの事実を知って感じる嫌悪感は私たち多くの倫理観を反映していると考えるのが妥当です。(もちろん、特に何も感じないというのもその人の倫理観を反映していると言えます)つまり、このような畜産は私たち多くの倫理観を満足させないように思われます。

食糧と穀物飼料

現在、世界では約20億トンの穀物が生産されていますが、そのうちの40%に相当する約8億トンが飼料として畜産動物に与えられています。また、1kgの牛肉を生産するために16kgの穀物飼料が必要とされています。特に日本についていえば、国内で必要な穀物資料のうち約75%を輸入に頼っています。日本のような経済的に豊かで飽食状態の国がある一方、アジア・アフリカ地域など経済的に貧しく飢餓状態・栄養不足状態の国があります。これは、貧しい国が穀物の余っている国から穀物を買えないという貧困問題や、貧困問題をもたらす様々な問題群が直接的な原因であり、家畜の飼育を減らすことが直ぐに飢餓状態・栄養不足状態の国々の状況を改善することに繋がるわけではありません。しかし、少なくとも、家畜の飼育を減らして、飼料となっている穀物を人に振り分けるために穀物を準備することが飢餓状態・栄養不足状態の国々の状況を改善するための前提となるのは間違いありません。

まとめ

以上より、動物に権利があることを認めるのは難しいと言えそうです。しかし、動物が権利を持たないからといって、動物を非倫理的に扱うことが認められないことは明らかです。先程も述べたように、現代畜産は我々の倫理観を満足させるものではありません。早く・安く家畜を太らせた者が“勝ち”となる市場経済において、今のままでは家畜の扱われ方(家畜の福祉)の問題が改善・解決されそうにありません。では、手っ取り早く、家畜の福祉の観点から政府が工場畜産を禁止するというのは果たして可能でしょうか。実際に欧州では家畜福祉基準が定められ、鶏のゲージを禁止する動きなどがあるものの、この動きは市民の倫理観の変化に後押しされての改革であり、市場経済を完全に無視した上での改革ではありません。つまり、市民が工場畜産によらない肉・卵を価値があるものとして評価し、経済的支持を与えた上で行われた改革なのです。仮に、政府が一方的に工場畜産に規制を加えたとすれば、畜産家に経済的負担を強いることになり、それは消費者に跳ね返ることになります。これを消費者である市民が納得するとは考えにくいと思います。日本においてもこのような改革がなされるためには、まず、工場畜産によらない肉・卵に安さ以上の価値を見出す(逆に工場畜産に反対の意思を表示する意味を込めて工場畜産による肉・卵を買うのをボイコットする)市民が増える必要があると思います。市場経済による過度の効率化のなかで問題となった家畜の福祉は、こうして、工場畜産に経済的支持を与えないという手段を使い、市場経済の枠組みの中で解決可能なのではないかと思います。

やや話が変わりますが、我々があまりにも畜産の現実を知らされてこなかったことも問題かもしれません。畜産の知識が、牛はのんびり牧草を食べ、鶏は自由に駆け回るといった絵本の世界にとどめられがちなのは、情報不足が主な原因だと思います。教育の現場において畜産についてある程度の知識を与えることは大切だと思います。

また、最後になりますが、先ほどは「市民が容認しないだろう」との理由で工場畜産の禁止を市民の間での倫理観の熟成を待たずに行うことは無理だろうと述べましたが、「市民が容認しなくても」工場畜産を禁止することは可能かもしれません。地球温暖化問題への対策と比べると分かりやすいと思うのですが、今、先進国の住む人々は「エコライフ」と称した生活をすることが賞賛され、また、ある部分では具体的な規制を受けている分野もあります。しかし、これは直接的には当人・法人の利益にはなりません。それは環太平洋に浮かぶ島々の人びとのためであったり、将来の人びとのためであったりするのです。では、なぜ、先進国では規制が設けられているのでしょうか。それは、この規制が個々人や各国が日々の生活の中で危機感を持ち、あるべき方向へと向かうべく意思決定をしたのではなく、この問題に通じた科学者達が鳴らす警鐘をもとにして意思決定がもたらされたからなのです。このように、個人では実感しにくく、対象が広範におよび、皆で一致して行動することに意味があり、また身近なライフスタイルに関わるような問題においては市民の倫理観の熟成を待たずして法とすることも可能なのです。倫理と法は別であり、このような問題は倫理の出る幕ではないという意見もあるかもしれませんが、法的に強制できないことが倫理的な義務であるのではなく、倫理的な義務の一部が法として具体化されているのであって、決して倫理と法が別の部分を担っているとは思いません。地雷禁止条約の成立のように倫理が条約を作り、条約が国内法を作るといったようなこともあるのですから。(それでも、私は市民の間での倫理観の熟成に後押しされて法がつくられた方がいいと思います。なぜなら、そのほうが時間はかかるように思われても、長期的に浸透し、受け入れられやすいと思うからです。)

質問に対する回答

植物にも心があるとしたら、シンガーはどう考えるのか

シンガーは動物に心があるから肉食はやめるべきだと言っているのではなくて「快苦を感じる能力があるから、苦痛を与えるべきでない」としています。 これに対しては、あなたのように、「仮に、植物にも苦しむ能力があるとすれば、植物も食えないのか」という質問をシンガーにした人がいます。シンガーはこう言っています「もしも我々が苦痛を与えるか、あるいは、自ら餓死するか、いずれかでなければならないとすれば、結果として生じる悪が少ないほうを選ばなければならないだろう。おそらく、植物の方が動物よりも苦しむことが少ないということは依然として真実であろうから、従って、やはり動物を食べるよりは植物を食べるほうが良いということになるだろう」このシンガーの回答に対して、マイケル・A・フォックスは次のように批判しています。「もしも人間がこの種の(絶対的な)生きる権利を持ち、「生じる悪が少ないほうを選ぶ」ことが許されるなら、人間は結局のところ人間以外のあらゆる自然に対して「道徳的優位」に立つことになる」確かに、シンガーの回答からはフォックスのような批判があるのは無理もないと思います。

他の批判としては、「動物に苦痛を与えさえしなければ肉食はいいのか(例えば、無痛で屠殺するとか・動物にとって苦しみのない環境で育てる)」というのがありますが、それは本当に苦しみの無い環境を用意することができるのかという実現可能性の観点、また経営における経済的な観点からも現実的ではないと思います。

なお、シンガーの思想の流れを受け継いだトム・レーガンも菜食主義や動物の権利についていろいろ述べていますが、いずれもシンガーより過激です。「たとえ、ある行為で動物が失う利益よりも人間にもたらされる利益が大きいからといって、それに対する道徳的非難が無効になることはない」、つまり、動物の利益も人間の利益と同等に考慮されなければならない、というのです。しかし、シンガー、レーガンが動物の権利を擁護する上で共に用いている功利主義は“人間の利益”“動物の利益”を想定して利益・幸福の総量を求める際に幸福を計量し、比較しようとしていますが、これは明らかに不可能であり、彼らの論の土台が不安定であることをうかがわせていると思います。(しかし、現状の畜産動物のあり方が私たちの倫理観を満足させない、という点については未だに真です)

飢餓状態の人々に穀物を回せるならばどんな方法が可能か、そもそも可能か。

難しい問題だと思います。穀物があることが飢餓・栄養不足状態の人々に穀物をまわすための最低条件ではあるものの、かつて、穀物が過剰だった時にも飢餓・栄養不足状態の人々が沢山いました。これを解決するには、貧しい国が穀物の余っている国から穀物を買えないという貧困の問題や、貧困をもたらす様々な問題群(内戦・元植民地・政治体制・環境問題・女性問題etc…)を解決することも大切だと思います。方法としては、過剰に穀物を持っている国が持っていない国に援助する、NGOが援助する、穀物がない国が穀物のある国から穀物を買えるようなお金を生み出せるような方法を見出す、ということが考えられます。

食物連鎖や動物的本能を考えると、肉食は仕方のないことである

問題を単純化しないほうが良いと思います。今まで倫理がどのように形成されてきたのかを考えてみると、我々は力だけに拠らない仕組みを作ろうとしてきたといえるのではないでしょうか。先人達によって、力のある者が食糧から身体までを支配するような“力の論理に基づく政治”を乗り越えようと努力がなされてきましたし、今もなされているのではないかと思います。そして、マネーを力とする社会にも嫌悪感を覚える人は多いと思います。敷衍して考えてみたとき、我々が食物連鎖の上位に位置するからといって、力があるからといって、動物を支配することが倫理的に正しいとされるでしょうか。また、我々は本能的な行動を非難することがある(例えば、闘争本能、行過ぎた性本能など)一方、都合の良いときだけ本能に基づいてその行動を善しとすることは一貫性がないように思われます。

肉食をやめる・減らすことはただ単に自己の倫理観を満足させるだけの単なる“おりこうさん”ではないのか。

単に肉食をやめる・減らすだけでは“おりこうさん”に過ぎないかもしれません。肉消費の削減によって実際に畜産動物の数が減るという効果はもちろんありますが、肉食をやめる・減らすことは一種の不買運動としてメッセージ性の強いものであるべきだと思います。自己の倫理観を満足させるだけでは世の中に変化を起こすことは期待できず、変化を待っているだけにとどまると考えるからです。したがい、求められる肉食をやめる・減らすあり方としては、微力ながらも世の中に変化を与えようという意識のもとに行動することであり、この姿勢を他の人にも伝えようとすることではないかと思います。

参考文献

書籍

  1. ピーター・シンガー、動物の解放、技術と人間、1988
  2. ローレンス・プリングル、動物に権利はあるか、NHK出版、1995
  3. シュレーダー・フレチェット、環境の倫理(上)、晃洋書房、1993
  4. 荏開津典生、「飢餓」と「飽食」、講談社、1994
  5. ライマン、ハワード・F、まだ、肉を食べているのですか、三交社、2002
  6. 新田孝彦、倫理学の視座、世界思想社、2001
  7. スーザン・ジョージ、なぜ世界の半分が飢えるのか、朝日新聞社、1984
  8. 加藤尚武 編、環境と倫理、有斐閣、1998

Web

  1. (社)日本中央畜産会、畜産ZOO鑑、http://group.lin.go.jp/data/zookan/kototen/

図版は細野による

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Yoshihiro Hosono <yoshihirohosono@hotmail.com>
Last modified: Sat Feb 15 20:40:27 JST 2003